自己紹介

今、NHK大河ドラマ「西郷ドン」の影響で大ブームの鹿児島、現在は市来串木野市で、私は中学卒業の15歳まで過ごしました。

その後は、船乗りとして長い海上生活を経て、タオルの町、今治で16年、東京に移り、早、30年が過ぎました。
今こそ、日本全国津々浦々発展して、全国どこを見ても大差はありませんが、私の少年期の鹿児島はあまりにも惨めな環境でした。

当時、串木野には三井鉱山があり、北海道の鴻之舞と、金の産出量で日本1、2位を争い、当時は小学校でも数百人の在校生がおり賑やかでしたが、今は全校生徒あわせて10数人と聞いています。好むと、好まざるにかかわらず、PTA会長の要職を誰かが引き受けなければならぬそうです。

中学生の頃は、アルバイトで、山から薪を背負って、1束数円で、運びおろし、また金の鉱山で、ダイナマイトで爆破した鉱石をトロッコで、抗外に運び出し、それをハンマーで砕く作業を、時給240円でしていました。

当時、東京では、電車も走り、映画、オペラや歌舞伎などの文化もあり、我が薩摩の地では、裸足で過ごし、通りには島津家の金の精錬所などがありましたが、英語の辞書を買うのに、東京牛込局に振替送金をして求めていました。

塾などはもちろんなく、夜は寺小屋のようなところに通い、先生や、先輩に勉強を教えてもらいながら、過ごしていました。
山の上にある畑で、飢えながら、芋や麦の植え付け、収穫作業をしながら、休憩の時は、遠くの山々を眺めて、百姓は嫌だ、将来は山の彼方、海の向こうにあるアメリカや外国に行ける船乗りになろうと夢見て頑張っていました。

あまりにも悲惨な少年期でしたが、夢かなって、商船学校に入学でき、若くして32歳で外国航路の船長になることができました。

船長の私一人が日本人で、残りの20数人の乗組員は、フィリッピン人や台湾人、韓国人でした。

船内生活では、荒くれた、人傷事件など幾度もありましたが、当時、船乗りは、健康で、度胸と頭が良くなくてはなれませんでした。

現在ではこの危険で孤独な船乗りになりたいと望む人は少ないですが、当時は大きな夢でそれがかなえられ、現在では納得し満足しています。

今は、今治タオルや輸入雑貨などを販売する小さな商人ですが、未だに潮気、船乗り魂が抜けきれない日々を過ごしています。

余談ですが【じゅん散歩】で放映された貨物船 船名【Oceania Courier 】の写真を見て、当時南太平洋のニチロ漁業で活躍されていたお客様が、この船は南太平洋のライフラインでしたと訪ねて来ていただき、懐かしいお言葉をいただきました。

日本から、雑貨、車他、諸々を積載して、横浜港より、サイパン、ガム、ヤップ、コロール、香港、シンガポール、パプアニューギニア、ソロモン、フィジ、トンガ、サモア、ニューカレドニア、タヒチまで約20数港に立ち寄り、1航海約50-60日で、10年近く過ごしました。

振り返って、一番好きな、再度行ってみたい國は、ウェスタンサモアのAPIAです。
タヒチは美しいところですが、当時船内からニシキヘビが出てきたとのことで(結局は見つからずでしたが)、港から追い出され、10日あまり、最寄りの港に周り、東京の船会社は多大な損害を被り、フランス領で、融通性のない、行政に憤りを感じました。